レイザーラモンRG「人生はあるあるである」
120冊目到達。えらいえらい(*^^*)
130冊目指して頑張ろう♪
* 東日本大震災が起こった日
僕にできることは何だろう。
考えた末に、ツイッターに書き込んだ。
「辛い思いをしている方が少しでも笑顔になれたらと思って、あるあるをつぶやきます。不謹慎だと思う方はフォローを外してください」。
僕が今できることはやっぱりこれしかない。
こうして、お題をいただいてあるあるを返す、本当の「あるある荒行」が始まった。
余震が続き、不安で眠れない人たちのためにたびたび寝落ちしながらも、夜中、何百というお題にあるあるを返した。
その頃は他の仕事も全部飛んでしまっていた。
ツイッターでお題に答え続けることだけが僕の仕事だった。
ちなみにその時、ツイッターで僕と同じようなことをされていたのがデーブ・スペクターさんだった。
デーブさんはただただ、フォロワーにダジャレをひたすら返していた。
(中略)
当時、僕の元へバッシングもあった。
「みんなが悲しんでいる時にふざけたことをするな」「貴重な電気を使うな」という声。
そんななか怒りを露わにして、「RG、いい加減にしろ!」とツイートしてきた大学生がいた。
それに対し「俺はお笑い芸人だから、これしかできない。今すぐ被災地には行けないし、今落ち込んでいる人たちをなんとかしたいという気持ちであるあるをやっている。僕のつぶやきを見るのが嫌だったらフォローを外してくれ」と答えた。
すると本人ではなく、その学生の友達から「責任感の強い熱い奴なんです。今、教師目指して頑張ってるとこらなんです」というつぶやきが返ってきた。
普段通りにも過ごしていたら、ツイッターでこんなやりとりが交差することはなかっただろう。
いろんなお題がバンバン来て、必死で返していた。
返さなきゃ、という気持ちだった。
「あるあるハイ」のような状態のまま、夜通しあるあるを返し続けていた。
気がついたら、フォロワー数が一気に増えていた。
余震が落ち着き、その後だいぶ月日が経ってからのことだった。
怒りをぶつけてきた大学生本人から「無事に教師になりました。あの時は心ないこと言ってすみませんでした」とメッセージが来た。
辛い時のことほど染み込むのだ。
ホットケーキの上に、バターをのせてもなかなか染み込まないが、ナイフで切れ目を入れるとよく染み込む、これもあるあるである。
(中略)
際立った才能があるわけではない人間が、この群雄割拠の、サイクルの早いお笑いの世界でサバイバルしていくには一体どうしたらいいのか―――悩み続けた僕がいつの間にか手にしていたのは、あるあるという武器だった。
(中略)
あるあるを見つけることは、物事をじっと見て、肯定的に捉えることだ。
あるあるは、価値観の異なる他人のなかで生き抜こうとするすべての人の道を明るく照らしてくれるはずだ。
決して順風満帆ではなかった。
でも、信じて歩んだ先には必ず道ができる。
これから、僕自身の子供の頃から環境に適応しながら、自分の生きる道を見つけていくためにやっていた「あるある探し」の醍醐味と歓びを綴っていこうと思う。
この本が、読んでいただいた方にとっても、少しでもあるあるだと思っていただけたら幸いである。
ちなみに、震災の余震が続くなか、がむしゃらにあるあるを返していたうちに、大変な数、リツイートされたものがある。
それは、僕の人生の下積み時代のすべてを表しているような、人生を肯定するあるあるだ。
「逆境」あるある……人間を成長させがち。
家族の結束が固まる時
2013年は僕にとって、あらゆる面で激動の年だった。
そして、家族の結束がこれまでにないほど強くなった年でもあった。
2013年の夏、嫁は死産を経験した。
妊娠したお腹の子は、「18トリソミー」という染色体異常からかかる病気だったのだ。
芸人という仕事柄、親しい人にも長い間このことは知らせていなかった。
娘のことを初めて公表したのは、2014年、三人の知り合いを指名して難病を救うための寄付を募っていく「アイスバケツチャレンジ」が流行った時だった。
僕のところへも指名が来て、僕は僕が演じるキャラクター三人を指名して終わらせた。
芸人にしてみたら、大喜利というか、どう返すかみたいなところを問われているんだろうと思った。
そしてその時に18トリソミーという病気のことを知ってもらいたいと思って、SNSで僕の状況を説明させてもらった。
長男、武丸を生んで、すぐにふたり目を作ろうということになったが、嫁は「一人ひとりをちゃんと愛情込めて育てたい」と考えた。
そこで間隔を離して、いざふたり目と思っていた頃、震災があった。
そこでまた少し時間を空けて、ようやくふたり目ができた。
僕らは大喜びで、「よかった、よかった」と無邪気に言い合っていた。
女の子だった。
その年、僕はDVDを出すことになっていて、その収録の会場に妊娠中の嫁を連れてきて、僕のあるあるを、嫁と、お腹のなかの娘に聴かせたりしていた。
だが安定期を過ぎた六、七か月ぐらいの頃、エコーを見ると、「ちょっと指と足が曲がっています」と医者が言った。
(中略)
そして医者は続けた。
「18トリソミーの子は、無事に生まれても長生きはできないことがおおいです」。
僕は悩んだ。
だが嫁はきっぱりと言った。
「こんなに育ってるから、せめてちゃんと産んであげたい」。
僕も納得した。
そして僕たちは、娘の名前も考えた。
ところが妊娠予定日になっても、陣痛はうまく来なかった。
一方で羊水でお腹が膨らみすぎて、嫁の体が危なくなってきた。
お腹の子は、羊水の中だったら生きていられるのだが、外に出たらどうなるかわからないという状態だった。
結局、陣痛促進剤を使って、人工的に陣痛を起こさせて出産した。
だが、その出産の途中で、お腹の子は力尽きてしまった。
僕も出産に立ち会った。
その小さな姿は、それはそれはきれいだった。
(中略)
この出来事は、僕たち家族にとって、とてもきつい試練だった。
子供の頃から僕のなかには「いいことと悪いことは半々」という人生観があった。
だからどんなに辛い時も、この後、絶対いいことがあると思っている。
その時もそう思った。
その年の終わり、僕たちレイザーラモンは『THE MANZAI』の決勝に残ることができた。
そして、僕は『R-1グランプリ』で決勝進出を果たした。
この年、必死に頑張った僕たち家族に、娘がくれたご褒美だと思った。
「辛いこと」あるある……その後にいいことがありがち。
嫁が退院してから、気持ちが落ち込んでいたので、僕はなるべく一緒にいてあげた。
そして武丸もすごく頑張って、嫁のためにいろいろやってくれた。
その時、家族の結束がさらに強まった。
生まれてからしんだ場合、戸籍には残る。
だが、体内で息を引き取った場合は戸籍には残らない。
だからせめてもの証拠として、この年の夏に発売したDVDにはあの夏の収録会場にたしかにいた、嫁と息子と娘の名前をエンドクレジットに入れた。
常連のお客さんが教えてくれること
僕は基本的に、短期的なスパンの損得を考えるよりも、長期的なスパンの損得を大事にしている。
即効性のある利益を求めて短期的にたくさんお客さんを増やすことよりも、固定のお客さんにずっと来てもらうのが、最終的に大きな成果を出すことにつながると思うからだ。
バスツアーも、開催側からは「新規のお客さんをもっと入れましょう」という声が強い。
だが僕は常連さんがいちばん大事だということを訴え続けている。
僕は常連さんのツイッターをチェックして、「あそこちょっとイヤだったな」という意見を探す。
常連さんにつまらないと思われるのがいちばんイヤなのだ。
売れない頃の、十人くらいしかお客さんが来なかった時代のイベントから参加してくれている人たちもいる。
そういう方が希望していることになるべく応えたい。
人気者じゃない時期が長かったがために、「こんな俺のために来てくれてるお客さん」がすごく大事なのだ。
その常連のお客さんたちは、新しいお客さんに「レイザーラモンRGのイベントの楽しみ方」みたいなものを、なんとなく広めていってくれる。
僕のイベントは、その人たちと一緒に育てていると思っている。
「修学旅行のつもりでバスツアーするんで、制服着て来てください」と言ったら、本当に着て来てくれる。
「バブルのディスコみたいなイベントします」と言ったら、ディスコっぽい格好をして来てくれる。
そういうノリのいいお客さんたちと共にこのバスツアーは育ってきた。
僕を使ってみんなが楽しんでくれるバスツアーなのだから、常連さんも僕の作品のひとつだと言ってもいいのかもしれない。
このバスツアーでは、常連さんが求めているあるあるは何かを探すことがもっとも大事な仕事だ。
常連さんがいちばん喜ぶことは何か。
たとえば、いろんなタイプのお客さんにたくさん入ってほしいと考えるのだったら、今売れている人のあるあるを探せばいい。
でも僕の常連さんを喜ばせたいと考えると、常連さんに今刺さっている人は誰かとまず考える。
それはたとえば「ダイアンの津田篤宏だな」「矢野・兵動の矢野勝也さんだな」という選択だったりする。
そういうことを常に観察しておくことが大事になってくるのだ。
「常連客」あるある……自分の魅力教えてくれがち。
少数であっても、常連さんが教えてくれることは大きい。
なぜなら、常連さんの好みこそが自分自身の客観的な魅力だったりもするのだ。
だから常連イコール自分を映す鏡だと思っている。
長く愛されるには
僕のあるあるイベントでのサービス精神は、たぶん大阪時代にアルバイトをしていた、個室でアダルトビデオを鑑賞する店、いわゆる「個室ビデオ店」で培われたのだと思う。
当時僕は、芸人の仕事がなさすぎためシフトに入りすぎ、ほぼその店に住んでいたといっても過言ではなかった。
みるみる出世した僕は、バイトながら店長に上り詰め、天津の向清太朗をバイト店員として雇ったりもしていた。
ついにAV仕入れからすべてを任されていたあの時期、僕は真剣に売上を考えてみればかなりの本数のAVを観ていたと思う。
店長として、その個室ビデオチェーンの店長会議にも出ていた。
どうしたら売上が伸びるか。
その頃のノウハウがその後に活かされている。
(中略)
個室ビデオ店は夜の営業が多い。
しかも繁華街にある雑居ビルだったので、僕がバイトを始めた頃は酔っ払ってトイレを汚す人も多かった。
だが、しだいにお客さんが「何度も来たい」と思うような店になり、常連さんが増えて、自分にとっての "第二の家" くらいの愛着が芽生えてきた頃には、みなさんトイレをきれいに使ってくれるようになった。
僕もしだいに常連さんの個々の傾向を理解するようになっていった。
回数を重ねると、借りるビデオでその人の趣向がわかってくる。
「なるほど、あの人は熟女がすきなんだな」とわかると、熟女モノを多めに仕入れるし、旧い作品はちゃんと置いておく。
そうしているうちに、常連さんが、「さっき飲み会があって、お土産にお寿司もらったけど食べる?」なんて言ってくださり、あたたかい交流が生まれ、いつの間にか個室ビデオ店が居酒屋のような場所になっていった。
大人になると誰しもなじみの店が欲しいものだが、僕の店はそういう場所になっていたのだ。
店を守るためにも、常連に尽くすというのは、すごく大切なことなのだ。
その店は、上京する直前まで結局六年くらい働いていた。
僕はバイトだったが、月三十万円ぐらい稼いでいた。
芸人としての収入は五万円くらいだったが。
「売れ続ける」あるある……常連を大切にしがち。
常連を大事にしすぎると、マーケットがしぼんでいくように思われるかもしれない。
だが、AV業界もあるあるも、もともと濃く狭いところなのだ。
濃く狭いことを売りにしているのであれば、より常連を大事にしなくてはならないと感じる。
僕は、チェーン店で規模を広げて儲けることよりも、店の看板を大切に守ることのほうが大事だと思っている。
芸人としての仕事に置き換えると、大きいハコでやりたいのではなく、四百人気がくらいの席を何十年も埋めていきたい。
言ってみれば、京都の老舗みたいな考え方だ。
イベントをたくさんやりすぎると、その常連さんたちに対して、「ごめんな、お金使わせて」と、ちょっと申し訳ない気持ちになる。
そんな時は、その人たちが喜びそうなゲストをツイッターで調べ、その人を呼ぶという試みをしたりする。
- 作者: レイザーラモンRG
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2016/10/03
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